琵琶法師の毛づくろい


by miminashibiwa

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カテゴリ:耳ざわり通信( 506 )

また一軒

こないだシャッターが下りていたのは定休日かと思って帰ったのだが、曜日を変えて行ってみたらやっぱりシャッターが下りていた。おまけに張り紙。嫌な予感。予感的中。7月いっぱいで閉店していた。
去年の暮れは、豆腐屋が閉まり。今年は坂の上の米屋が消え、商店街の乾物屋が閉じ、米や豆腐や乾物や梅干しなんか売ってた流行らない店もシャッターを下ろした。

これらすべて、自分の街ではないのだが、わざわざ行ったり通りすがりに覗いたりしてきた店だ。
何だか近頃(昔からか)隠居じじいみたいになって、なるべく米や糠を米屋で買い、豆腐厚揚げ豆腐屋で買い、味噌屋は少ないけど見つけたら味噌を買い、野菜も八百屋、魚も魚屋なんて事をしている。
まあ数が少ないから、そう巧くはいかない事も多いのだが。
自分の住むところでは、豆腐屋に行く。今は暑くて持ち歩けないので、買う機会がめっきり減ってしまった。
糠床は暑さの(自分の?)せいで駄目にした。これから旅があるので、糠はいちおう買ったが秋まで休戦。糠も買い替えだ。

しかしそんなところで買おうとすると、元から減っていた専門店がまたひとつ消えてゆくのを目撃することになる。今頃来ても遅いよとでもいわれているようだ。
普通に普通のものが食べたいだけなので、米屋や豆腐屋や味噌屋があると何とかやっていけそうな気がする。そのためにも、一軒も減らぬようにと願う八月。

こんな事を書いていても、実際は何でも食べる。ひとの家へ行ったり飲み屋へ行ったりすると何でも食うので、気になさらず美味しいものを出してください。食べます。



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by miminashibiwa | 2018-08-08 01:41 | 耳ざわり通信

アモンティリャード


新宿ベルクの前を通るとエレキギターの音が。店の外にも長蛇の列。ライブをやっている。中で踊っているのは、もしやストリッパーの牧瀬茜嬢ではないか!以前彼女のライブをここベルクで見たが、今日は偶然。店の中は満員で、みなさんカメラや携帯をダンサーに向けている。狭い中を人をかき分けるように踊る牧瀬茜嬢。私も中に入り生ビールとツマミを頼み、置ける場所を確保。と、突然セリフを言い出したり歌をうたい出す牧瀬茜。何だか親戚のおじさんのように緊張した、一時間以上続いたパフォーマンス。頑張ってるな。ライブは衣装を着て踊っていましたが、壁には沖縄の海に潜る裸身の牧瀬茜の写真パネル!

投げ銭興行?で、帽子が回ってきた。ちょっと知り合いなもので、あとで握手。踊った後のせいか、手がしっとり濡れていた。

その後テーブルを確保。牧瀬茜嬢は他のお客さんと少し離れた席へ。離れて見ていた。
何だか得したような、いい日だな〜。暑い中、新宿へ来た甲斐があった。

しばらくビールを飲んでいたが、メニューにアモンティリャードを見つけ頼む。
アンダルシア・バロン 十年熟成 中辛口「バロン・ミカエラ・アモンティリャード」

ちょうどポーの「アモンティリャードの酒樽」を読んでいて、アモンティリャードが飲みたくなっていた。
有楽町のシェリークラブに行くとシェリーの飲み比べをしたが、いったい何を飲んだものやら記憶にない。

むかしバルセロナの酒屋で地元のおっちゃんたちと立ち飲みしていて、三杯目に樽から注いでくれたのは旨かったな〜。あれがアモンティリャードだったと信じているんだが。
「これ本当にワインか?」なんて片言で聞いてると、足許のショルダーバッグが消えていた。おっちゃんたちの目は、なぜか焦点をぼかしてうつろになってる。ランチでワインをボトル一本空けた後で、今も三杯目、頭も酒でぼんやりしてる。しかし、バッグはないようだ。これひとつでひと月以上ヨーロッパを旅行しているのだからさあ大変!(続かない)

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by miminashibiwa | 2018-08-06 00:49 | 耳ざわり通信

黒猫

「黒猫・白猫」という映画があった。
エミール・クストリッツアという監督の作品で、名前はなかなか覚えないが、「アンダーグラウンド」を見た時の興奮は忘れない。始まってすぐ映画が始まったと思った。映画なんだから映画が始まるに決まってるじゃないかというなかれ。ああ映画が始まったと思えるのはホントに少ないのだ。この説明はいつか。
「パパは出張中」「ジプシーのとき」「ライフ・イズ・ミラクル」「オン・ザ・ミルキー・ロード」は観たかな?どれも映画で、「黒猫・白猫」含めこの監督の映画はとても好き。

「黒猫」という小説があった。
エドガー・アラン・ポーという作家の怖い話で、ご存知の方も多いだろう。ポーは有名だから、いろいろ読んだ人もいるだろう。以前分厚い三巻の「ポオ全集」を持っていたが、20年ほど前の引っ越しの時に売ってしまった。
8月にポーを読まないかという話が持ち上がった。こんな時はしまったと思ってしまう。
文庫を二三冊持っているのだが、いつものごとく何処にあるか分らない。
早速、本屋・古本屋・図書館へ行き買い、借り、調べ、読む。読む。

「黒猫」だけでもいろんな人の訳がある。現在三人の訳を読んだが、けっこうイメージが変わる。
そう考えると、シェイクスピアもそうだが、翻訳の力は本当に大きい。

さて、誰の猫を読もうか?考えるだけで怖くなる、猫の怨念。

蛇足
「決定版・十一ぴきのネコ」という舞台があった。
私はドライヤー怖いのニャン七という役名を賜った。全国で100ステージ以上上演した。
腹を空かした猫たちが食べ物を求め旅に出る。最後に大きな魚を見つけ、格闘してこれを捕えて食べる。ところが毒にまみれた魚だったため全員死んでしまうという、24曲歌って踊っての芝居だった。

いまもむかしも現実の事だというのが辛い。

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by miminashibiwa | 2018-07-27 23:49 | 耳ざわり通信

TO BE

先日読んでいた演劇雑誌「悲劇喜劇」7月号に、河合祥一郎作「ウィルを待ちながら」が載っていた。4月に富山県高岡市まで「桜の森の満開の下」を観にきてくれた役者高山春夫君が、田代隆秀さんとのふたり芝居。ベケットの「ゴドー待ちながら」を枠にして、ふたりでシェークスピアで遊ぶ。「勝負の終わり」は分ったが、「クラップの最後のテープ」は気付かなかった。聞けばナーンダ。もうひとつベケットが隠れていたけど、ちょっと無理があるか?
授業があった小田島雄志先生のシェイクスピア全集は、出る端から買って全巻揃っているのだが、いかんせん怠け者の役者は40年経っても読み進められない。小田島訳で上演したのは「ニナガワ・マクベス」だけか。演舞場の「オセロ」は誰の訳だったのだろう?三度やった蜷川幸雄演出「ハムレット」は松岡和子さんの訳だった。こないだ読んだ「ロミオとジュリエット」は河合祥一郎訳だし、「テンペスト」は松岡訳。つい軽い文庫を手にしてしまう。でも、なんとか小田島雄志訳読もう!宝の持ち腐れにしてはいけない。

で「ウィルを待ちながら」は、山のようなシェイクスピアの台詞遊び。ほとんどの戯曲を知らないから、観に行ってもしんどいと思い躊躇していたが、ふたりの芸を観に行けばいいのだと思い直し行ってみた。暑い日だった。
田代さんはほとんどのシェイクスピア劇に出演している役者。身体が自動的にシェイクスピア劇になるのが可笑しい。高山君の土着的な身体と相まって、面白い。当て書きではあるが、いい組み合わせだと思った。

観ていて困ったのがマクベスやハムレットの台詞で、何ヶ月何年も聞いていた台詞なので、河合祥一郎さんの台詞に身体が反発するのだ。「えっ、その台詞違う!」と。シェイクスピアの英語の台詞は変わらないだろうが、日本語の翻訳は時代と共に変わるし、河合さんは今シェイクスピア翻訳を手がけているので当然私の知っている台詞と違うわけだ。分っちゃいるけど、身がよじれる感覚を味わう。

小田島訳が多かった田代さんは、大変だっただろうと想像する。
亡くなった平幹二朗さんなんかは、何人の翻訳でハムレットをやったのだろう?

いつか河合祥一郎訳のシェイクスピア作品に出て、身体に沁みるほど台詞を覚えてみたいものだ。



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by miminashibiwa | 2018-07-25 01:30 | 耳ざわり通信

ヨネクラジムアパートの青春

山手線の目白と池袋の間、西武池袋線の池袋から出てすぐのところ、ちょうど山手線と西武池袋線が交差しているところに、米倉ジムはあった。1階がボクシングジム、2階がアパートになっていた。
目の高さを西武池袋線が走り、下を山手線が走っていた。以前はすぐそばに、唯一山手線を渡れる遮断機があった。冬の朝には雪を被った貨物列車が通ったりした。

去年Tからジムが無くなるらしいと聞いていた。一度行って見ようと思いながらそのままになっていた。12月に芝居の公演で池袋から秩父に行く時、レッドアロー号の車窓からジムを見ようと思っていたのに、気づくと通り過ぎていた。

先日、役者のKから動画が送られてきた。米倉ジムアパートが更地になっていくところが写っていた。「青春時代の米倉ジムが消えている !!」というコメントが付いて。

そうか、「我が青春の、我らが青春の米倉ジムアパートか!」

ここに最初に住んだのは、高校の先輩で建築科の学生だったNa。
彼が目白の不動産屋で部屋を探すのに付き合い、女子学生ばかりが住むアパートと米倉ジムアパートが紹介された。私は当然女子学生がいるアパートがいいと思ったが、Naは私が一緒だったせいかボクシングジムのアパートに決めた。六畳一間だが、広くて天井も高く、押し入れが大きくて窓が大きい。管理人夫婦と子供、クラブで働く夫婦と子供、父娘かと思ったら違ったふたり、練習生、6部屋はあったろう。もっとあったか?

当時、昭和50年頃の目白駅前は古いマーケットがあって活気があった。夕方の橙色の電灯に映し出されたマーケットは美しいものだった。のちに外国に行った時に出会うようなマーケットだった。米倉ジムも柴田国明やガッツ石松が活躍している頃で、近々マンションに建て替えるからその時は出て行って欲しいと言われていた。

Naの次に入ったのが,演劇科の学生だった私と法学部の学生だったT。やがてTが出て、わたし一人。それから同郷のサラリーマンのNiが入り、やがて結婚で出る。次に画像を送ってきた役者のKが入り、私の同期生の役者Yが入り、法学部の学生から小説家志望になったTが再び入った。私の知っているのはこんなところか?

同じ部屋に友達が何人、何年に渡って住み続けたのだろう?自分も何年住んだのか?

Tと一緒に住んだ頃は、近くにいた従兄弟のIもよく来たし、Kも自転車を飛ばしてきた。
隣りには可愛い女の子が住んでいて、時々ふらっと入ってくる。まだ学校にも通っていないので、来ると牛乳を飲ませてやった。親の仕事のせいで宵っ張りの子供だった。

管理人でトレーナーの松本さんは、私が学生のときに桐朋学園の演劇科の金曜講座に講師として来たこともあった。私がボクシングジムのアパートに住んでいたので、ボクシングをしていると思ったものも多くいた。

金はなかったが、当時ジムに住んだみんなに恋があり夢があり、友達があり、不安と根拠のない自信と裏切りと破局と、青春につきもののあらゆるものがあった。その中身は、痛くてとても書けない。

ネットで米倉ジム閉鎖のいきさつを読む。昭和がここでも終わりを告げた。

米倉ジムは終わったが、書いているうちに私の米倉ジムアパートの青春が急に甦ってきてしまった。

暑くて60度の泡盛「どなん」を独りでひと瓶空けた夏の一夜もあった。もう40年も経った。今夜は30°の「どなん」をひと口舐めて忘れよう。ああ暑い、暑い。青春は熱い。火傷(やけど)する。

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by miminashibiwa | 2018-07-17 01:55 | 耳ざわり通信

辿り着けない

先日の東京は小雨で、何となく下高井戸シネマを検索したら「グレーテスト・ショーマン」をやっていた。サーカスプロデューサーの映画で、サーカスの呼び屋の大島さんからお勧めメールが来ていたが見逃していた。どこかでやっていないかと思ったら、下高井戸でその日まで。久し振りに下高井戸へ。ホームから映画館を確認。早く着いたので駅前市場の豆腐屋と魚屋に寄る。厚揚げちりめんじゃこ桜えびを買う。映画を観ないのだったら、刺身を買って帰るところだ。いい街だ。
ドトールで珈琲を飲みながら、来る前に買った演劇雑誌「悲劇喜劇」の特集『井上ひさしの狂気と天才』を読む。別役実『芸能と文学の統一という偉業』の「井上氏は・・・野坂(昭如)、五木(寛之)、永(六輔)のような『甘さ』がなかった。」という一文にドキリ。

井上ひさしとシェイクスピアを読みたくなった。

上映15分前に喫茶店を出て、3分あれば楽らく着くはずの下高井戸シネマが見当たらない。以前、辿り着けぬ失態をしていたので焦る。学生の頃から時々来ているが、最近は危ない。あちこち走り回り5分前に到着。来てみれば、なんだと言うことなのだが。

辿り着けないのは私だけなのだろうか?見えていたのに辿り着けない不安。改札を出てすぐ映画館に向かえば問題なさそうにも思えるが、空間把握が希薄なのか、迷子になりやすいのか、老化現象か、その全てなのか辿り着けない。
人生や仕事において、見ているのに、見えているのに行けない事や出来ない事、手に入れられない事はよくあるだろう。だからといって映画館を見付けられない言い訳にはならないか。

で、「グレーテスト・ショーマン」は面白かった。気になる事はあるが、たっぷり映画に浸った。ミュージカル映画はあまり観ないのだが、先日は素直に観た。映画「地上最大のショウ」や亀井俊介著「サーカスが来た」、映画「フリークス」や日本の見世物小屋を撮ったドキュメンタリー映画を思い出す。
サーカスと見世物小屋を一緒にしたものに近いかもしれない。
最近テレビでサーカス一座のドキュメンタリーを立て続けに二本観ていたので、こちらの映画は豪華なものだが、寂しさと華やかさといかがわしさと純粋と差別と尊敬と家族的強い結びつきと離反と危険と開放感と暴力と愛と誇りと嫉妬と崇高と何もかもを、まるごと鍋の中に投げ込んだ同じ匂いを感じる。歌にもやられる。映画が終わった後の「ビハインド・ストーリー」にも泣かされた。
外ではどんな蔑みを受けても、丸い舞台(リング)の中では、身体の歪みも巨人や小人というサイズも、性も出自も身体の色も国籍も差別されない。驚き、恐怖、美、笑い、感動を与えられれば。

さて、私はリングに辿り着けるか?

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by miminashibiwa | 2018-07-16 01:00 | 耳ざわり通信

雨あがれ

数日前、1府7県に大雨特別警報。死者行方不明者あわせて100人近かったのが、今や200人に届かんとしている。地震による津波を心配しているうちに、山津波が猛威をふるうようになってしまった。どこに来るか分らない、大変な時代になったとつくづく思う。命が、生活が、財産が、思い出が、景色が奪われて行く。

古来より、琵琶は鎮魂の楽器といわれている。これからも行く先々で、その土地が、暮らす人々が、平かであれと琵琶を弾くことになるだろう。


オウム真理教の7人の死刑執行のニュースも重なった。麻原彰晃を死刑にしたか。

1995年、阪神淡路大震災に続き、3月20日(月)地下鉄サリン事件。前日か前々日の週末に、新宿の今で言う思い出横町で、ハル・ハートリー監督「フラート」の撮影があった。インデペンデントの監督で、資金も乏しかったろうから、多分無許可のゲリラ撮影だったろう。小雨が降って地面が濡れていた。人がまだいない早朝ロケで、私は茗荷谷から丸ノ内線で新宿に行った。週明けに地下鉄サリン事件が起きた。もし自分が乗っていた丸ノ内線だったらと、ゾッとした。実際は満員の通勤時間を狙ったものだろうからそうはならなかったが、その時は知る由もない。心配した電話もかかった事を思い出す。

それから先きは怒濤のようなオウムのニュース。

中野の病院に入院していた友人を見舞いに行くと、病室に入りきらないサリンの被害者が、廊下に溢れたベッドに寝ていた。何処の駅から運ばれてきたのだろうか。何処の病院も入るスペースがなかっただろう。
サリンが置かれていたという新宿地下道のトイレの前も異様な気を孕んでいた。電車に新聞紙が置かれていると過剰反応をした記憶もある。

あの時も、日常がガラガラ音を立てて崩れ、新興宗教が流行り、未来への大きな不安を抱えた、鎮魂の必要な辛い時代だったのだ。

1995年。この年、私はまだ琵琶に出会っていない。

雨あがれ!

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by miminashibiwa | 2018-07-10 01:47 | 耳ざわり通信

琵琶行など

結局今日も、桂歌丸の「質屋庫」「菊江の仏壇」「髪結新三(上下)」を聞く。

ラジオで箏曲家の野坂恵子(操壽)さんの講演を十三週に渡って聞く。一回三十分なので聞き応えあり。三木稔、高橋竹山、伊福部昭などとの出会いや、二十絃箏や二十五絃箏を作る話は興味深く、魅力的な話し方をされる方だった。時々箏曲の演奏もあり、きょうで放送も終わってしまったので、CDで「伊福部 昭 二十絃箏曲集 野坂恵子」「琵琶行〜伊福部 昭作品集 野坂恵子 二十五絃箏曲」を聴く。

札幌のやぎやから石釜焼きのパン二つ届く。封を切ると懐かしいやぎやパンの香りが。ひとつ冷凍にして、ワインとブルーチーズでいただく。あと一月半で、現地で食べられるかな?

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by miminashibiwa | 2018-07-05 02:05 | 耳ざわり通信

サッカーワールドカップと歌丸師匠の訃報

前回、海鞘(ほや)の事を書いていたら、青森のアンテナショップが目に入った。案の定、海鞘の塩辛もあれば鰊の切り込みもある。思わず買って帰る。ところがこの海鞘の塩辛は新鮮なもので、私が最初に食べたビン詰めの海鞘の塩辛とは別物。ビン詰めは年期物だった。今夜は杉勇で流す。こういう肴が旨いんだな。

で、ひと寝して朝2時45分からサッカー・ワールドカップ日本×ベルギー戦。
後半早々の日本2得点に発狂!にわかサッカーフアンは、大喜び!勝つかと本気で思った。結果は2−3で負けたが、大満足。インタビューなど聞いて5時半又寝る。情報戦なのは分かったが、戦えるのだという事もよく分かった。しかし、この紙一重の差が永遠の差である事もある。越してしまえば何でもないが、とてつもなく遠い事もある。

桂歌丸師匠の訃報が伝えられる。
笑点の初期の頃は見ていた。身体が弱った近頃の歌丸師匠の特集なども見ていた。
高座を観る事はなかったが、今日は師匠の落語を聴いて送る事に。

三遊亭圓朝作、牡丹灯籠「お露と新三郎」「お札はがし」「橋宿」「関口屋のゆすり」「桂歌丸・玉置宏 牡丹灯籠通し公演記念対談」、「乳房榎」、、、5時間ほど聞いた。
玉置宏との対談で、円朝の牡丹灯籠を始めたのは69才からと知った。どれも1時間近い演目だし自分で手を入れなければならない。私も語り琵琶で「牡丹灯籠」を語った事はあるが、う〜んと唸って頭を垂れ、新らしい作品を覚えようと心に決める私であった。やれよ!

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by miminashibiwa | 2018-07-04 00:16 | 耳ざわり通信

海鞘(ほや)

関東地方の梅雨が明けたら、突然真夏になったような天気。なんて暑いんだ!

こないだ中野で海鞘(ほや)を買った。
袋入りのやつで、皮を剥いてあり一個分をふたつにしてある。
困った事に日本酒を切らしていた。ウィスキーよりはいいかと思い、泡盛で食べる。
鮮度は、しかたがない。もちろん中野は海の街ではない。皮があるから新鮮とも限らない。

大島さんから、横浜「野毛ほや祭り」の案内があった。いろんなホヤ料理を味わえるのだと。宮城県の「ホヤパイ女将」こと太田和美のホヤ普及運動のいっかんらしい。野毛もご無沙汰だし、しばし悩んだが、断念!行けば良かった。

海鞘(ほや)との初対面は、1979年新宿の「ビストロ◯羅治(わらじ)」。なぜ年が分ったかと言うと、この時私は名古屋のテレビ局CBCで金沢みどり主演の昼帯「噂の女」(TBS系列)に出演。金沢みどりお姉さんを不幸にして行く悪い弟を演ずるため、隔週で名古屋に通っているときだったから。名古屋に行っていない時は、この店でアルバイトをしていた。
ある日、落語家の方が海鞘(ほや)の塩辛をお土産に持ってきた。たいがいのものは食べられると思っていたが、この塩辛はエグカッタ。口が梅干しのように皺皺になった。何と形容していいやら、酷い食い物だと長い間インプットされた。

海鞘の事は石巻の友人に聞いていて、おばあちゃんからの教えで中の水も飲むのだと言っていた。海のパイナップルと呼ばれているとも聞いた。
このエグイ塩辛を食べた年には、居酒屋で海鞘酢を食べているし、高円寺駅前の魚屋で買ってきて自分で捌いて食べてもいる。しかしまだ酢の物でしか食べていなかった。

海鞘の刺身を初めて食べたのは、W君のクルマで東京から北海道の故郷へ帰った時。W君、君は今何処にいる?みんな心配してるぞ。
夏だった。青函連絡船で函館に着き、居酒屋でホヤ刺しのメニューを見て頼む。刺身があるのかと驚いた。ホヤは酢で食べると刷り込まれていた。これが新鮮で美味かった。なんだ刺身美味しいんじゃないか!匂いも全くない。ま、東京で私の行く魚屋や居酒屋ではこれほど新鮮なのにはなかなか出会えなかったから、酢で食べていたのか?

莫久来(ばくらい)を食べたのもこの頃か?海鞘とこのわた塩辛。高円寺の居酒屋「いなか」だったろうか?この珍味は旨いものだった。芝居の旅で青森の市場に行った時、あちこち探しまわっても見つからず、ある店の店員が私の顔を見て「莫久来」かい?と声をかけてくれ、冷蔵庫から出してくれた。
珍味探しでは札幌の二条市場でも同じ経験をした。探していたものはもう忘れたが、なかなか置いていないものだった。これもある店で私の顔を見て◯◯かいと言って出してくれた。私の欲しいものは顔に書いてあるようだ。恥ずかしい。

焼き海鞘を食べたのは、奥尻島でのロケの時だから1991年のようだ。
2週間ほどのロケで、私達は国民宿舎に泊まっていた。朝起きると宿の温泉へ行き、獲れたてのイカの刺身や魚で朝食をとると言う贅沢さ。天気がよくて、悪天候狙いの撮影のため撮影中止が続いた。そんな時、地元の人たちとソフトボール大会があり、あとでバーベキューとなった。ばばの手というがでた、海鞘がそのまま網の上に乗った。海鞘を焼くなんて発想がなかったので、ここでも驚いて刺し身で食べられないのかと聞いた。そりゃ獲れたてだから食べられると言う。じゃと言って刺身にもしてもらうが、焼いた海鞘がまた美味かった。中に海水が入っているから蒸し焼きになるのだ。後にも先きにもこの焼き海鞘は食べた事がない。その後奥尻島の津波で、今はどうなっているのだろう?

海鞘(ほや)は椎名誠の本で読んだ。
酒を呑んだ締めに、飯の上に海鞘をたっぷり乗せて食うのだと言う。
これは二度やってみたが、二度と食べたくない。海鞘酢にしたのがいけなかったか?新鮮な刺身なら食えるんか?しかし、どちらでももういい。

海鞘(ほや)の寿司を食べたのは、仙台の回転寿し。
「耳なし芳一」の公演で、塩竈と仙台に行った時なので2002年だった。
公演が終わった翌日、今や和紙のアーティストになった渡邊摩里さんに連れて行ってもらった店にあった。さすが宮城県。握るのは難しいだろうと思ったら、案の定軍艦巻だった。味は、さて、特に又食べたいというものではなかった。海鞘酢が乗っていたと思う。その後他の店で食べた気もするが、もう覚えていない。

キムチの中に入ったのも食べた、干したのも食べた。炒めたり揚げたりしたのは食べた事がない。その後塩辛も食べられるようになった。
それにしても、こんなに海鞘の思い出があるとは思わなかった。

今年の夏は北海道、秋は宮城県へ行くので、美味しいの食べるぞ。


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by miminashibiwa | 2018-07-02 17:10 | 耳ざわり通信